通俗水滸伝豪傑百八人之一個
 歌川国芳は文化八年(一八一一)十五歳の時に初世歌川豊国の門人となる。その後、挿絵及び浮世絵を描いていたが、その絵の評判はあまり芳(かんば)しくなかった。そこで新機軸を出さんと熟考し、思い当たったのは武者絵だった。それには文化年間以来、流行を極めている水滸傅の豪傑が良いということで、先ず手始めに水滸傅中の五傑「九紋龍史進」「花和尚魯知深」「清河縣之武松」「黒施風李逹」「智多星呉用」を描いて『通俗水滸傅豪傑百八人之一個』と題し、両国の加賀屋吉右衛門が版元となり売り出した。
 その筆力は雄勁(ゆうけい)で、構図は実に巧妙であり、今迄の浮世絵にない勇壮さを持ち合わせていた。国芳は、予期していた以上の好評を博し、たちまちその名は響き渡っていった。その後、水滸傅の豪傑を描き続け、全部で約七十枚の絵が板行された。
 水滸傅によって国芳は出世し、また国芳の浮世絵によって水滸傅の人気はいっそう盛んになった。それがまた文身へ影響を及し、国芳の浮世絵を下絵にして水滸傅中の豪傑達を背中へ彫るという様な事になっていくのである。
 国芳の絵は、強みを見せる文身には誠に好適であった。また国芳自身も磊落(らいらく)で、義侠(ぎきょう)に富み、文身を好む江戸っ子連中とは意気が良く合った。文身があったがために国芳は有名になり、また、国芳の絵で文身が流行する。国芳と文身とは切り離す事のできない密接な関係なのである。

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